院長 歯周病指導医 志田 哲也

歯周病指導医をご説明するには、日本歯周病学会認定医専門医から始めなくてはなりません。

日本歯周病学会は日本における歯周病の研究、教育、医療および予防を推進し、国民の保健の増進に寄与することを目的とする学会です。 日本歯周病学会では、認定医専門医指導医の資格があります。

 

私は日本歯周病学会の指導医です。日本歯周病学会では、学会に所属して、5年以上経過すると専門医の受験資格が得られます。

この試験は、症例検討を指導医の先生約5人の前で15分程度の持ち時間で行います。また、筆記試験等もあり、これらに合格して専門医になることができます。

専門医になってからさらに7年経過すると指導医の受験資格が得られます。
平成20年5月31日現在、日本歯周病学会に所属している歯科医師数は7249人そのうち専門医は825人、さらに指導医は179人で、指導医は会員全体の約2.5%にとどまっています。


この指導医は、歯周病の研究・治療に長く携わっているだけではなく、より専門的な知識・技術を備え持っているといっても過言ではないでしょう。歯周病に悩む患者さんにとっては、この指導医が所属する医療機関で治療を受けることは大きなメリットといえます。

歯周炎に対しての知識・診療を進める専門医/指導医は、歯周炎のスペシャリストといっていいと思っています。

 

院長経歴

H3.3 神奈川歯科大学卒
H3.4 西堀歯科医院勤務
H13.4 志田歯科医院開院
H20.5 日本歯周病学会指導医 取得

出身地は、神奈川県の横須賀市です。幼少のころは、幼稚園まで30分かけて徒歩で通園したことを覚えています。途中に山あり池あり、幼稚園まで遠いい思い出でした。山では虫取りをし、池ではザリガニとりをして通園したものでした。今思うと生き物が好きだったと思います。

 

小学校時代

小学校に入学すると、ソフトボールをやるようになったのです。毎日毎日。

6年生の時には地域のソフトボールチームのキャプテンもしました。勉強の方といえば、3年生から週三回塾に通ったことと宿題以外はほとんどせず、多分毎日PM9時ごろには就寝していました。その塾では、算数と国語の毎回練習問題を大量にやっていたことを記憶しています。算数は、計算問題を時間と量の両方の面から塾の生徒同士競っていました。そのことにより今でも数字が好きなのと、数字に対する記憶が優れていると思っています。

例えば、友人の誕生日を覚えているとか、友人の結婚記念日にお祝いメールを送るとか。
小学校4年生の時に、歯が痛くて歯科医院に行き痛みがなくなったことを思い出します。子供ながらに歯科医師って素晴らしい職業だなって思っていました。この時から、つまり10歳の時に将来の仕事は、歯科医になろうと思っていました。

 

中学時代

中学は、やはり地元の市立中学に入学しました。小学校の時ソフトボールをやっていたので中学は野球部に入ろうと思っていましたが、なんと、珍しく野球部がその中学になかったのでした。一年間悩んだ末、2年生から陸上部に、当時仲の良かった友人に勧誘され入部しました。

それというのも、高校に入り陸上で早くなった走力を生かして、野球部に入ろうと考えたからです。この陸上部にはハートがものすごく熱い、監督がいたのです。女性の監督で体育と美術の担当をしていました。今で言うとアニマル浜口さんみたいな方で、「気合だ・気合だー」と、走るたびに言われていたような気がします。

あまりにも、勉強をしなかった付けが高校入試の時に回ってきてしまいました。公立高校も地区で真ん中ぐらいの偏差値のところしか行けないと学校側の評価でした。そこで、両親は公立高校より大学の付属高校に入学させ推薦で大学にいかせることを考え僕もその路線に乗って行ったのでした。

 

高校時代

神奈川県内の私立高校に入学した僕は、早速大きな岐路にあったってしまいます。それというのも野球部に入部するか、勉強をとるのか。悩みに悩んだ末、勉強の道を選択したのです。

というのも当時の野球部には部員が120人、さらに法政大学で後に30勝あげることになった和田護さんや後輩では中日ドラゴンズの山本昌選手などそうそうたるメンバーが部員にいたのです。(卒業後)また、10歳の時に志した歯科医の夢をどうしても叶えたく勉強・勉強の毎日を送り始めました。何しろ、義務教育9年間ほとんどまともに勉強していなかったため挑戦者の精神がかなり大きく一日の睡眠時間は6時間。学校より帰宅後、PM4時から午前0時まで、時にはAM1時まで3年間毎日継続し、そのおかげで、理系で一番を3年間奪取したのです。しかし、歯学部の道はそんなに当時は簡単に開けませんでした。付属高校だった僕は、推薦で歯学部に行けなかったのです。

付属高校の成績で全国5番の実績が必要でした。これには何とかクリアしたのですが、合わせて付属高校統一テストがあり、それが基準を満たせなかったのです。人生初めての大きな挫折です。

 

歯学部へ

歯学部に行けなかった僕は、担任の先生と両親の強い説得により浪人はせず他学部の推薦を受け建築工学科に進みました。しかし、歯学部の道はあきらめ切れません。建築工学部の1・2年生で卒業に必要な130単位の内102単位を取得していったのです。

当時の学科の中では270人中最多の取得数でした。したがって、3・4年生であらためて歯学部に必要な勉強を行い再挑戦していったのです。多くの大学では、3年生から卒業論文のために研究室に強制的に入らなくてはなりません。その研究室では建築の構造計算の研究室に入りました。そこで、運命的なスポーツの出会いがあったのです。仲のいい研究室の仲間に高校時代ラグビー部出身者が2人もいました。ラグビーのルールや試合の経験を聞いている間に、ラグビーをしたい気持ちになっていったのでした。この大学4年間で大変だったことが、3つありました。1つは、先にも申し上げたように1・2年生のうちで単位をほとんど取得していったこと。2つ目は、片道の通学時間がなんと3時間かかったのです。往復6時間でした。3つ目は、4年生のとき歯学部の勉強と並行して、建築の卒業論文の勉強をしなくてはいけないことでした。歯学部の勉強の時間を大分削られてしまったのです。しかし、歯科医になる志は、絶対あきらめないといい聞かせ、頑張りました。

大学4年生の2月に歯学部の受験をし、現役のまま卒業と同時に歯学部に入学することができたのです。当時3大学を受験し2校の合格。地元横須賀の神奈川歯科大学に進学していきました。

歯学部の入学式当日、クラブの勧誘が盛んな神奈川歯科大学のラグビー部から誘いを受け校門前で入部が決まってしまったというエピソードがあるくらい、激しい勧誘を受けました。この6年間でラグビー部のすばらしい信頼関係を学でいったのです。もちろん歯科大といっても体育会のラグビー部でしたので、激しい練習・理不尽な先輩の言いつけ・酒の一気飲みなど日常茶飯事。上下関係を厳しく・厳しく叩き込まれました。

僕にとっては、高校や1つ目の大学で味わえなかったことでしたので、やだとは思いながらも6年間しかできないことだと思い逆に誇りに思いながら過ごしていました。しかし、僕が思っていたよりも神奈川歯科大学のラグビ-部をはじめとする諸先輩方は、人間味のある先輩ばかりで卒業しても面倒見が良く、本当にありがたい先輩ばかりで助かっています

もちろん、ラグビーだけではなく6年間死に物狂いで勉強に励んできました。というのも、年二回のテストが大変厳しく点数の足りない学生は容赦なく場合によっては20%ぐらいの学生が留年していったのでした。また、出席も厳密にとり授業での欠席が多いと年二回のテストを受けさせてくれない、いわいる受験停止を食らってしまう厳しさでした。そういうかいもあって6年間、留年もせず上位のほうで卒業でき国家試験も余裕を持って一発合格となっていきました。

 

研修期間

卒業してからラグビー部の先輩のいる都内の歯科医院で10年の修行に入りました。ここで今の歯医者の基本を体で叩き込まれました。当時の修行時代の院長は口癖のように理屈じゃない、やるしかないんだと、朝8:30から夕方6:00までずっと患者を診ていったのです。もちろん忙しすぎて昼休憩は10分しかないことも、時にはありました。この院長に歯医者のイロハを習うのと同時に、人間性などの礼節も浸透されたのです。今はなき、この院長に本当に感謝しています。
また、ここの歯科医院で運命的な出会いもありました。今も毎週勉強会を開いている馬車道で開業されている山口先生との出会いでした。公私ともに今でも多くの付き合いをしています。彼とは、勉強・将来の夢・私的相談など今でも良く連絡を取り合っているのです。

この期間にラグビーのレフリーの免許を取得しました。それと言うのもラグビ-は、激しく危険なスポーツ。開業または患者さんを受け持つことにより怪我が一番の心配事になります。そこで、レフリーならばまったくコンタクトプレー無くラグビーに関与できるとの狙いでした。

 

志田歯科医院開院

卒業10年後に勤務した歯科医院を退職し、直ぐに志田歯科医院を開院し分院も立ち上げ、現在に至っています。もちろん、日本歯周病学会の専門医から指導医も取得し、神奈川県内では大学を除き7施設目の歯周病専門医研修施設に選ばれました。他に日本臨床歯周病学会会員・日本臨床インプラント学会会員になっています。

 

  今後も継続した勉強と志田歯科医院の活性化を図っていきたいと思います。